記録と語り 記録に残ったことと、後から語られた話を分けて見る

人物

豊臣秀長とよとみ ひでなが

1540年(天文9)ごろ〜1591年(天正19)

秀吉の弟。兄が前に出て、弟が後ろを固める ── このシリーズのもうひとつの軸です。目立たない分、記録も多くありません。

豊臣秀長のイメージ
20代前半の小一郎 ※イメージ 当チャンネルが画像生成 AI で作ったオリジナルの創作(フィクション)で、実際の姿を写したものではありません。

一呼び名の移り変わり

当チャンネルは、その時期の呼び名を使います。章の途中から見る人のために、初めて出るときは毎回「のちの○○」と添えています。

時期呼び名補足
第一章〜第九章 小一郎(こいちろう) この時期の実名は「長秀」ですが、丹羽長秀と紛らわしいので当チャンネルは地の文で使いません(史料を引くときだけ、説明を添えて)
第十章〜 秀長(ひでなが) 「羽柴長秀 → 羽柴秀長」。「宰相」「大和大納言」は肩書きとして
第十六章〜 亡き秀長 秀長が亡くなったあとの章では、この言い方で通します

諱(いみな)の「長秀」の「長」は、信長の偏諱(名前の一字をもらうこと)とされます。弟が「兄の家来」としてではなく「信長の家臣」として名をもらっていたことになり、「兄が弟を呼びに来た」という話を見直す手がかりとして、和田裕弘氏が挙げています。

二史料での書かれ方

幼少期の史料はありません。兄に仕えた時期も経緯も、同じ時代の記録ではわかりません。

秀長が出した文書で最も古いとされるのは、8月16日付・近江黒田郷宛の「木下小一郎長秀」署名のもの(年号がなく、天正元年=1573年と推定)。『信長公記』では天正2年(1574)の長島攻めに「木下小一郎」が初めて出ます。満33〜34歳です。

そして『信長公記』は、そのあとも「木下小一郎」と書き続けます。兄が羽柴に改姓したあとも、史料の上では呼び名がすぐには変わりません。

三出てくる章

第一章「誰でもなかった兄弟」、第二章「兄に呼ばれた弟」