記録と語り 記録に残ったことと、後から語られた話を分けて見る

人物

黒田官兵衛くろだ かんべえ

1546年(天文15)〜1604年(慶長9)

秀吉の播磨攻めを支えた武将。諱は孝高(よしたか)、のちに如水(じょすい)。

黒田官兵衛のイメージ
有岡城から助け出される官兵衛 ※イメージ 当チャンネルが画像生成 AI で作ったオリジナルの創作(フィクション)で、実際の姿を写したものではありません。

一呼び名の移り変わり

当チャンネルは、その時期の呼び名を使います。章の途中から見る人のために、初めて出るときは毎回「のちの○○」と添えています。

時期呼び名補足
第五章 官兵衛 このころは主家の名字で「小寺官兵衛」。『信長公記』も『豊鑑』もそう書く
1580年7月〜 黒田官兵衛 秀吉の文書の「黒官兵」が、黒田姓の初見とされる
晩年 如水 出家後の号。当チャンネルは地の文では使わない

「軍師」「参謀」「両兵衛」とは呼びません。いずれも後の時代の呼び方です。『信長公記』は竹中半兵衛を「羽柴筑前與力」(寄騎)と書き、官兵衛も一人の武将として出てきます。渡邊大門氏は『黒田官兵衛 ── 作られた軍師像』で、その像がどう作られたかを論じています。

二史料での書かれ方

同じ時代の記録に、官兵衛はほとんど出てきません。『信長公記』に「官兵衞」の語が出るのは1577年11月の一度だけで、有岡城に囚われた話の記事はありません。

詳しく伝えるのは『黒田家譜』(1688年完成とされる)です。囚われた経緯も、救出の様子も、松寿丸をかくまった話も、この本から来ています。

同じ時代の手がかりとしては、秀吉の書状があります。1577年7月23日付とされるものに「我らおとゝの小一郎めとうせんに心やすく存候」── 私の弟の小一郎と同じように心やすく思っている ── とあり、秀吉が官兵衛をどう見ていたかがうかがえます。

三出てくる章

第五章「播磨の泥沼」